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長鯨(ちょうげい)は、大日本帝国海軍の潜水母艦で迅鯨型潜水母艦の2番艦。戦後に復員輸送に従事した後に解体された。 == 概要 == 1920年(大正9年)度の計画(八八艦隊案)により建造が予定されていたが起工前にワシントン軍縮条約が締結された。それにより計画艦の中で起工前のものの予算は一度見直された。幸い長鯨は計画中止になることなく1923年の大正12年度艦艇補充計画により改めて予算を獲得、建造された。 1924年(大正13年)8月2日に水雷母艦として三菱重工業長崎造船所にて竣工、呉鎮守府籍に編入された。翌9月8日には早くも第2潜水戦隊旗艦となり第2艦隊に編入された。同年12月に潜水母艦に類別変更される。艦隊編入後は中国方面や南洋に進出し活動した。 1935年(昭和10年)に一度練習艦となるが、友鶴事件による改装はこの時期に行われたようである〔『写真 日本の軍艦 13巻』p95より。〕。開戦1年前の1940年(昭和15年)11月に第2潜水戦隊旗艦に復帰、翌年6月に第6潜水戦隊旗艦となりそのまま太平洋戦争に参戦した。 開戦時はカムラン湾に進出、フィリピン攻略や蘭印攻略を支援した。1942年(昭和17年)4月10日に呉鎮守府部隊となり、以後は海軍潜水学校練習艦として訓練に従事した。1943年(昭和18年)1月15日に迅鯨と入れ替わりに第7潜水戦隊旗艦となり第8艦隊に編入、トラック・ラバウル方面へ進出し同方面の潜水艦作戦を支援した。11月29日より第11潜水戦隊の旗艦となり、瀬戸内海にもどり訓練に従事する。1944年(昭和19年)8月には沖縄方面の輸送任務に2回従事する。その後は内海の訓練に戻った。 1945年(昭和20年)に入り瀬戸内海が機雷で封鎖されたため6月に舞鶴港に移動した。7月30日に敵艦上機の攻撃で艦橋に直撃弾を受け中破、そのままの状態で終戦を迎えた。 艦橋は戦後に修理され復員輸送に従事した。本来の機関科兵は全員帰郷してしまい、機関科未経験の元神雷部隊隊員(特攻兵器「桜花」部隊)約20名が長鯨に配属された〔#最後の海空戦226頁〕。艦内規律も失われ混乱の中、素人の機関科兵達は機関室火災と修理と整備を繰返しつつ長鯨を運用していった〔#最後の海空戦227頁〕。妊娠中の女性が長鯨の乗船中に出産し、長鯨にちなんだ名前が付けられた事もあったという〔#最後の海空戦228頁〕。1946年(昭和21年)8月15日をもって復員船任務解除。その後は日立造船向島造船所で解体され、1947年(昭和22年)初めに解体完了した。船体の一部は同所の浮き桟橋に利用されたという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長鯨 (潜水母艦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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